寄り道は司法試験

 先月は行政書士に寄り道をしていたが、今月は司法試験に寄り道だ。裁判官や弁護士になりたい、そんなふうに思っている。もう四十七歳にもなっているのに、そんなことを考えるなんて典型的なアホであり、時が経てば収まっていることだろう、そんなふうにも思ってしまうのだが、せっかくやる気になっている、勉強することは良いことだ、なぜ司法試験に興味をもったのかを一度整理してみようと思う。

 まずは勉強がしたい。あまりにも漠然とした理由だが、勉強がしたいというならば、私は神主なので神主の勉強だけをすれば良いと思うだろう。もちろん神主の勉強も定期的にしている。現在、中小企業診断士の資格勉強中だが、その試験科目の七科目と併せて神道、倫理も時間割に組み込んでいる。(神道に加えて倫理が入っているのは、哲学科を卒業しているからである)このように十分とは言えないが定期的に神道の勉強もやっているのだ。これらの九科目だけでも多いが、そこに法律のことも入れたいのだ。それが先月は行政書士であったが、今月は司法試験である。勉強の範囲が大幅に増えた。ではなぜ司法試験なのか。それは現実の問題を解決するからだ。現実の問題を解決する勉強、これに魅了されている。

 これにはきっかけがある。勉強することは楽しく、しかし辛いこともあるわけだが、以前の私の勉強法は、本を読んでこの随筆を書くというパターンであったが、そこに問題を解くというものを取り入れた。これはポール・クルーグマン、ロビン・ウェルス共著の『マクロ経済学』、『ミクロ経済学」という本がきっかけとなった。この経済学の教科書には各単元ごとに練習問題がついているのだ。その問題を解くことによって知識を定着させる。知識をインプットするだけでなく、それらを使ってアウトプットすることによって自分のものとするような構成であったのだ。それがとても楽しかった。特にこの本では、日常的な場面を想定して、そこで経済学的な問題を解く。マルバツ問題と言うよりは、深く現実を考えるきっかけになるような思考の問題が多かった。そして中小企業診断士の資格勉強をするようになってからは、もちろん問題を解くことが増えた。読んで知識を増やすだけでなく、それらを使って問題を解く、解決することが刺激的で楽しかったのだ。中小企業診断士は経営についての問題を解決するが、司法試験は社会生活のさまざまな側面の問題を解決する。そのかっこよさに魅了されている。現在の私では、仕事柄、精神的な問題の解決や理解をする事にとどまることが多いが、具体的に問題を解決し、現実を変えてゆきたい。目の前で困っている人の問題を解決し安心を与えたい。そのための勉強がしたいのだ。それがまず一つ目である。

 次にキャリアアップになるからだ。私は神主である。まったく関係ないと言えばそうだが、こじつけることも出来る。神主には祭祀についての宗教的な仕事と、神社を経営していく世俗的な仕事とがある。宗教的な仕事だけをしていればいいというものではない。むしろ宗教的な仕事は定型的に毎年くり返されるが、世俗的なものは社会の変化や経済的な状況に対応するため、常に目を光らせながらアップデートしていく必要がある。そこで中小企業診断士の資格に興味を持った。経営を効率よく発展させていき、経済的に安定することによって、定期的な祭祀の側面を保護する。そんなイメージである。診断士の資格だけで十分である気もするが、その上司法試験の勉強をしたいというのは、単に欲張っているのだ。

 私は跡継ぎではない。神社には世襲の跡継ぎの方がいらっしゃる。私の立ち位置からすると、かっこよくいえば良き支援者や相談役が目指すところとなる。この役割をもっと担うために、まずは経営の伴走のプロである中小企業診断士、そしてそこからさらに範囲を広げて、世俗の問題を解決する法律のプロになろうと思っている。この意味でキャリアアップなのである。つまり神主として務めているが、その具体的な仕事内容は宗教的なことだけでなく社会のさまざまなことに対応もする。経営者ではないので、それを補佐するプロになろうとしているのだ。

 そしてその補佐する能力を資格というものにしておくと、退職したあとの自分の生活の足しにもなる。独立して仕事をする事が出来るのではないかと思っている。神主としてのキャリアアップと共に、神社から離れた個人として生きていくためのキャリアアップという意味があるのだ。中小企業診断士は経営のプロ。神社でしか働いたことのない男が、資格を取ったからといって何になるのだろうとも思うが、ないよりはマシである。司法試験は法律のプロ。こちらも経験のない男が、すぐに独立出来るかと言えば、そんなに甘い世界ではない。就職もこんな年齢だと少ないだろう。しかしこちらもないよりはマシであると共に、資格を取るために身につけた知識が私を助けてくれるのではないかと思っている。

 私生活のほうでも私を法律へと導くようなことが起きている。まずは引っ越しだ。離婚して別居していた次男と二人で住むことになった。以前から問題行動の多い次男であったが、そのことに耐えられなくなった母親が育児拒否をしたのだ。次男は児童相談所に保護され、今は舞鶴市の児童施設に入っている。四月から私と一緒に住む予定だ。だから次男と住むために引っ越しをすることとなった。仕事場に近い現在の向日市ではなく、彼女が住む伊丹市へと引っ越すことにした。これは次男を悪さする友だちから遠ざけるためと、これから人生を共にする彼女の近くに住んで、互いに助け合いながら生きてゆくためだ。通勤時間は一時間半ほど、通えない距離ではない。このことが決まるまでには沢山のことがあったが、その中で離婚にまつわるお金のことで弁護士に相談をした。その弁護士さんは鋭い目つきで紙にペンを走らせ問題を整理していた。そしてまずはお子さんのことを守らなければならないとつぶやいたのだ。お金はもちろん大切だが、何よりも大切なのは子供の人生だ、子供の心の中で何が起きているかだ。親としてお金以上に大切にしなければならないものを再確認した。この弁護士さんの言葉がなければ、お金ばかりに固執していたかも知れない。私は助けられた。そのことが私に法律や法律家に対する信頼感をもたせ、憧れを感じさせた。勉強してみたいという意欲を湧かせたのである。法律は詳細に現実を分析する。時には冷淡にその関係を切り裂くかも知れないが、法律が守るものは柔らかく壊れやすい大切なものである。問題はまだ解決されていないが、春になって状況が変わるのを待って動き出そうとしている。それまでにまた弁護士に相談しようと思っている。またさらに法律の方へ引き寄せられそうだ。

 またこんなこともあった。先日、神社に実習生がやってきた。地域の神社を守るために、地域の代表として神主の資格を取っている方だ。二年ほどかけて勉強する最終段階として、私が奉職している神社に実務の実習を受けに来られた。私はこの時々やってくる実習生という存在が大好きである。同じように神社にかかわる人間としての共通の話題があることもそうだが、さまざまな背景をもった方が来られるので、その方々の話しを聞くのが楽しくて仕方ないのである。今回の方は、農協で保健の業務にたずさわっていた方である。保健の業務とは、具体的には交通事故などの保険金の査定をしたりする。それには今までの判例を参考にするそうだ。つまり裁判の記録、法律に関することである。そしてその判例は『判例タイムズ』という月刊誌を参照するそうだ。これは法律事務所や保険会社などが定期購読するような専門雑誌で、紀伊國屋や丸善のような大きな書店でも扱っていなかった。判例に興味があるならこの雑誌は面白いと薦められアマゾンで買ってみた。三千円もした。雑誌にしては高額だ。その内容は文字通り判例であるが、詳細な解説と実際の判決文が掲載されている。広告はほぼゼロである。無駄のない雑誌だ。読み応えはかなりある。ここ一年ぐらいの最近の実際の事件の判決文で、刑事や民事も掲載されている。自分でも不思議なほど夢中になって読んでいる。法律がどのように人々の問題を解決するかを知ることが今の喜びだ。

 さらには哲学的な意義も感じている。私は大学で哲学を専攻していたので、今でも哲学書を手に取ることがある。はじめの頃この随筆は哲学のことが多かったが、最近は具体的事象への興味の高まりから、中小企業診断士や法律のことについて書くことが増えていた。なぜ具体的事象に興味をもっているかというと、私の研究のテーマと関係がある。私の研究テーマは「関係性の存在論」というもので、それは常に変化するものたちが、互いに関係し合いながら存在しているという存在論である。生成から消滅へと、人間が認識出来ないような微細なレベルであっても、事物は変化している。その意味で、実在は過程である。そして、それらの事物は、互いに存在することを可能ならしめ合っている。これを「共可能性をもっている」と表現しているが、この共可能性を存在の条件として位置づけている。つまり単体では存在出来ず、互いに互いの存在を可能ならしめ合うことによって、事物は存在している。この二つの性質をまとめると、結果や完成としての事物ではなく、現在進行的に生成し消滅している事物が、互いに影響し、また支え合うような形で存在している、こういった存在論を支持しているが、この関係性を具体性を持って研究したいと思っているからなのだ。

 はじめは経済学に興味を持った。さまざまなモデルを使って現実を分析し、予測を立ててゆく経済学は、複数の要素の関係から主要なものだけを抽出するので、現実その物とは言えないが、そこに主だった事象のおおよその流れを予測しているので、魅力的であった。現在は中小企業診断士の試験科目の一つとして勉強している。

 そして法律に興味を持った。こちらも中小企業診断士の試験科目にもある。それがきっかけで今まで学ぶことがなかった法律に惹かれているのだ。『法の精神』の著者で三権分立を唱えたフランスの啓蒙思想家のモンテスキューは、『法の精神』の冒頭に、「もっとも広い意味においては、法とは事物の本性に由来する必然的関係のことである」と述べている。ここでは自然法則なども含めているが、事物間の関係が法であると述べている。私が法律に興味を持ったのはこのように考えたからである。事物にはそれぞれの性質があり、その性質によって他の事物との関わり合いにおいての反応が違ってくる。その反応の違いがまたさらにその事物の性質を固有のものとするわけだ。法律は、自然の法則そのままでは目指すところに行けないので、ある種の拘束をすることによって、社会を理想の形に維持している。事物の本質や関係を知り、それらを理想の形に補正してゆく。それはあたかも雨水を誘導して任意の場所へ貯めてゆくようだ。水の性質を知り、高いところから低いところへと誘導し、囲ったり角度をつけたりしてあらゆるところの雨水を一か所の瓶の中に貯める。これをするためにはその性質を活かして、人間が何もしなくても、雨水が集まり、任意の場所に貯まるようにするのだ。つまり仕組みを作るということだ。この仕組みが一旦出来上がると物事は自然と理想の方へと動き出す。しかしこの仕組みが間違っていると、もちろん物事は間違った方向へと進むのだ。だから法律はこの社会をある方向へと誘っていることになる。この仕組みの面白さもさることながら、向かっている方向にも興味がある。社会を大きく変えるからだ。一つの判決が社会の方向性を変える。現在の人間にとってもまた未来の人間にとっても重要なことである。

 第五代最高裁判所長官に石田和外という人がいる。私はまだよく知らないが、伝記の表題には、「戦後も天皇主義思想を変えることなく、人権よりも秩序重視の「日本的司法」を確立した」とある。最高裁判所長官の目指す方向が大きく社会を変えてゆく事例だろうか。神主である私は、古来から続く「祈り」の重要性を強く感じている。そして国家としてその役割を担ってきた天皇の存在の重要性もまた強く感じている。仕組みを変えると結果は変わってしまう。法律を作ったり解釈を変えると未来は変わるのだ。改めて法律家の重要性を感じている。

 実務的な側面においても、また形而上学的な側面においても、私にとって法律は最大公約数である。重なるところが多く、これからの発展に期待できる。だからと言って最難関の司法試験を目指さなくても良いとは思うが、今はそれ以外を知らない。今後どうなってゆくだろうか。しかしまずは中小企業診断士である。仕事に直結するスキルを身につけて神社に貢献しよう。そして副業もして小遣いも稼げるようになろう。その上でさらに上を目指して司法試験を突破したいと思う。その先に哲学書の完成が待っているような気もする。神主としても実務家としてもまた父親や夫としても経験を積んだ向こうに、後世に残すべき普遍の何かがあるのではないだろうか。ふでのまにまに夢を叶えよう。


令和八年一月二十一日



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杉原 淳一
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ふでのまにまに