固定されないものたち
秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花
萩の花尾花葛花なでしこが花をみなへしまた藤袴朝顔が花
万葉集一五三七、一五三八
これは万葉集に収められている山上憶良の和歌である。ここに詠まれた「尾花」はススキ、「朝顔」はキキョウを指すと言われている。今年の夏も暑く、そして長かったが、最近になってようやく涼しく秋らしい気候になってきた。私が奉職する神社には、和歌に詠まれた「藤袴」が咲いている。
藤袴は九月~十月にかけて薄紫色の小さな花をさかす。クマリン成分による甘い香りが印象的で、葉っぱを乾燥させると桜餅のようないい匂いがする。古くはこれを匂い袋にし、袂に入れていたようだ。元号「令和」の出典となった同じく万葉集の「梅花の歌三十二首 序を併せたり」に「蘭は佩後の香に薫る」とあるが、この「蘭」は藤袴とされている。古くより人々はその香りを楽しんだようだ。
藤袴の香りを楽しんだのは人間だけではない。「海を渡る蝶」アサギマダラも、この甘い香りに酔いしれ、ひらひらと舞いながら、ピロリジジンアルカロイドという有毒成分を摂取する。雄がこの有毒成分から性フェロモンを生成し、雌を誘引するという。そしてひらひらと舞いながら、北は上高地や白山、南は台湾のほうまで海を渡る。翅に浅葱色(水色)のまだら模様があり、開翼長六~七センチと、アゲハチョウ並みの大きさがある。このアサギマダラが境内の藤袴にやってくるのだ。見た目の美しさと海を渡るという力強さ、そして長い歴史を持つ藤袴との組み合わせが魅力であろうか、カメラを持った老若男女が境内を訪れる。花から花へとうつる姿に心が躍り、蜜を吸いながらゆっくりと翅を開閉する様に酒機嫌の魅力的な蝶である。
このような美しい蝶を眺めても、私の脳裏に浮かんだのは、優雅な和歌や繊細な絵画ではなく、事務用品であるブロックメモであった。五センチ角の小さなメモで、ちょっとしたことを書き留め、目につくところに張っておけば便利なあの文房具である。万葉のいにしえや雄大な海を想像せずに、身の回りの文具が思い浮かぶところは、私の貧弱な発想力の露呈であり、すこし恥ずかしくもあるが、アサギマダラのふわふわと、そしてどこまでも飛ぶ姿に、ブロックメモによる思考法の流動的なあり方を思い出したのであった。
私のブロックメモの使い方は、備忘録としてではなく、アイデアを組み合わせて文章をまとめたり、複雑な関係を整理するというものだ。小さなブロックメモに一項目ずつ書き込み、それらを並び換えることで新たな発見や物事の整理が出来るのである。だから、もし私の心が情緒的な時は、これを使ってイメージを繋ぎ膨らませ、和歌を詠むことも出来るかも知れないが、やっていないというのが風情のない現実である。
このブロックメモによる思考法は、一枚ずつメモを並べるので、風が吹けばそこに展開された思考は雲散霧消ちりぢりになって消えてしまう。そのはかなさは、ひらひらと花から花へと舞っているアサギマダラのようであるのだ。だからしっかりと残しておきたい時は、別でメモをとったり、並べたその全貌を写真に撮って固めてしまわないと、なかったことになってしまう。ちょうど藤袴にとまったアサギマダラが飛んで行ってしまったあとに、それらの美しさを人に伝えようとしても
納得いく伝え方が出来なかったり、また自らの記憶もどんどんと薄れていってしまうことのようである。そこに展開された思考は、しっかりと別の方法で記録しないとどこかへ行ってしまうのである。
ふわふわと飛びながらどこまでも行ってしまうアサギマダラが、この固定されないブロックメモの思考を思い出させた。このように不安定なブロックメモではあるが、私はその不安定さ故に気に入っている。なぜなら、それは思考が、流動性を本質とするこの世にしっかりと寄り添うことが出来るように感じるからだ。ある一つの項目を加えた時に全体の様子が変わることがある。それを固定されたメモでは表現できない。メモに展開された全体像がゆがんでしまうからだ。しかしブロックメモなら、少しずつそれぞれのメモを動かして、均衡をとることができるのだ。それは自然の秩序に似ている。固定されていないのである。
たとえば、私は仕事上でタスクをブロックメモに書き出している。思いつくものを思いついた順番でどんどんと書いてゆくのだ。そしてそれらを分野や優先順位などに沿って並び換えてゆく。そして順番にこなしてゆくのだ。そうすると仕事全体を俯瞰してから取りかかることになるので、スムーズに流れを作ることが出来る。そして急に入ったタスクなどもブロックメモにして、同じように俯瞰しながら並び換え、どこに入れるのが適当であるかを検討する。このことによって急な仕事をこなしながらも、全体のバランスをとることが出来るのだ。一つのタスクが増えることによって微妙に変わる優先順位を調整してゆく。これが、流動性が本質の現実に寄り添ったメモのあり方の一例である。
また勉強でも使うことが出来る。私は今、中小企業診断士の資格勉強をしている。その中の二次試験では、とある企業の経営について分析をしたり、問題解決のための助言をしたりするものがある。いわゆる記述式の文章問題である。この問題を解答する際にブロックメモを作るのだ。まずは設問を要約しブロックメモに書いて並べておく。そうすることで問題文から何を読み取らなければならないかが分かる。そして本文を読みながら、大事だと感じたことをメモしていく。また思いついたこともメモすると良い。そしてそれらを並び換えながら、設問への解答を作ってゆくのだ。
本文に線を引きながらでも良いが、情報の整理がこちらの方がうまくいく。自分の意見や知識もメモするので、本文の情報と区別しながら使い分けることも出来る。あとから出てくる新しい情報によって、先の情報の取り扱いも変わることがあるが、ブロックメモを並び換えることによってそんな事態にも難なく対応できる。とにかく便利なのだ。しかし一点残念なことに、本番ではこのブロックメモによる解答は出来ないことだ。試験ではメモの持ち込みは禁止されている。練習や物事の理解に使うのがいいだろう。
ブロックメモは、何かを残すということよりも、何かを作り出すための道具として使うのが面白く感じている。アサギマダラの生息域が季節によって移ろいで行くように、ブロックメモもその形を常に変えてゆく。そして子孫を残すように、さまざまなアイデアや文章を残してゆくのだ。
ところで、私は離婚をして二人の息子とは別居をしている。長男は今年大学受験である。次男はまだ中学二年生だ。今この次男が児童相談所に一時保護されている。本人の問題行動や家庭の機能不全が原因である。まだ結果は出ていないが私が引き取ることになりそうだ。そして私には彼女がいる。内縁の妻と言ってもいい。彼女にも子供がいる。長男は独立したが、長女は高校三年生だ。そしてこの長女が今引きこもりがちだ。体調を崩したのがきっかけで不登校気味になり、単位の問題から通信制の学校に転校した。
もし私が次男を引き取ることになったら、私は彼女の家の近くに引っ越しをするつもりだ。職場からは遠くなるが、彼女の家のそばに住んで互いに支え合おうと思っている。次男も転校をしなければならなくなるので嫌がっているが、環境を変えるのも彼の問題行動を正すにはいいかもしれない。ふぞろいで問題だらけの家族かもしれない。家族と呼ぶにはつながりが全く足りないかもしれない。次男は巻き込まれて可哀想かもしれない。長女はありがた迷惑を感じているかもしれない。しかし私の意思は変わることはない。
ブロックメモを並べたら不思議な繋がりが見えてくるように、私たち「ふぞろいな家族」も妙な共通点があるかもしれない。アサギマダラがふわふわと本能に従って海を渡るように、もしかするとこの「ふぞろいな家族」は運命をまっすぐに歩いた先にあったもので、これは必然の正しい人生なのかもしれない。
答えなど確かめようもない事である。一体誰に聞けばいいのだろう。固定されないブロックメモは風が吹けば消えてしまう。ちりぢりになってしまう。なかったことになってしまう。定住しないアサギマダラは、はかなくどこか知らない場所でその最期を迎える。しかし、ブロックメモは何かを生み出し、アサギマダラは子孫を残す。固定されないものたちの生きた証として。
「ふぞろいな家族」の生きた証を楽しみにしている。
令和7年11月4日
コメント
コメントを投稿