アクターネットワーク理論、具体的なものへ

 「随筆の書き始め、悩みますよね!何をテーマにしたいかや、どんな雰囲気にしたいかで変わってくるけど、こんなアイデアはどうでしょう」。そう言ってGrokは私に「随筆の書き始め」について教えてくれた。

 Grokとは、2023年にEron Muskが設立した人工知能企業「xAI」が開発した対話型生成AIである。そのAIに「随筆の書き始め」について訪ねたところ、フレンドリーに答えてくれたのだ。

 1,日常の小さな気づき

朝のコーヒーの香り、窓から見えた風景、ふと思い出した昔の記憶とか、身近なことから始める。たとえば、「今朝、いつものようにコーヒーを淹れていたら、ふと子供の頃の夏休みを思い出した。」みたいな感じで自然に読者を引き込む。


 なるほど、身近なことからはじめると親近感が湧き、興味を持てるかも知れない。


 2、問いかけでスタート

読者に話しかけるように質問を投げかける。「あなたは、人生で一番印象に残っている音って何だろう?」とか。そこから自分のエピソードにつなげると、親しみやすい雰囲気になる。


 「一番印象に残っている音」とは、なかなか面白い質問である。私の場合は、大阪梅田の路上ライブで初めて聞いたヴィンテージのサックスの音である。こんなにいい音がこの世にはあるのかというような大げさな気持ちになったのを覚えている。このような質問で始まることによって、自分の記憶を遡ったりするので、文章に引き込まれていくのかも知れない。


 3,一瞬の情景描写

季節や天気、場所の雰囲気を短く鮮やかに描写。「秋の夕暮れ、冷たい風が頬をなでる瞬間、なぜか心がざわざわした。」みたいな詩的な書き出しで、読む人をその場に引き込む。


 こういう文学的な雰囲気のある書き始めには憧れたものである。そして、そんな風に夜中に書いた文章で、私は何度も自分のことが嫌いになったものだ。


 4,意外な一言

ちょっと驚くような一文で始める。「私は、コンビニのおにぎりに人生の真理を見た。」とか、ユーモアや意外性で興味を引いて、そこから話しを広げる。


 だいたいこのような始まりのものに面白いものはない気がするが、自分が書くときは、このような意外なもので始めてしまっていることが多い。


 以上Grokが教えてくれた随筆の書き出しである。せっかく教えてくれたが、そのアイデアは採用せずに、Grokの言葉を引用するという仕方で始めてしまった。

 2022年に公開されたChatGTPは、現在「チャッピー」と呼ばれているようである。そんなに親しまれるようになったAI、これまで使ったことがなかったが、私も検索をしてみたので、このような書き出しになったのである。私が検索したのは、「チャッピー」ではなく「Grok」という黒ずくめの怖そうで、宇宙飛行士のようなAIであった。愛称を考えて「グロッキー」と呼んでみたが、ボクシングのパンチを受けてヘトヘトに疲れ弱った様子を表すらしいので、Grokと本名で呼んでいる。

 今までなら、「随筆の書き出し」と調べると、沢山の記事を自分で読んで、それらをまとめなければならなかったが、今はAIが要約してくれるので大変楽である。あっちこっちに飛びながら大切だと思うものを抜き出し、自分で情報をまとめていたが、冒頭のようにきちんと整理したものを表示してくれるし、履歴から他の関心事と結びつけてくれたりもする。自分でも忘れていたことに気付かせてくれるので面白いのだ。

 中小企業診断士の勉強で出てくる経済や法律、会計の用語を調べた。専門用語はわかりやすい表現で、具体例もあげて説明してくれる。また神主と中小企業診断士の資格との相性も調べてみた。このように二つの項目を併記すれば、共通点や相違点をあげてくれ、ダブルライセンスとしての効用も示してくれる。新井俊邦氏や石井里幸氏のような、神主であり中小企業診断士でもある方の具体的な名前や書籍も紹介してくれた。自分で調べるよりも格段に効率がよいと感じたのである。

 このようにしてAIにいろいろ尋ねたなかに「関係性の存在論とは?」というものがある。これは私が以前から研究している哲学的な論点である。すべては単独で存在するのではなく、関係しながら存在している。そしてむしろその関係の方が主となる、そんな存在論だ。これを勝手に「関係性の存在論」と呼んでいたので、この存在論の正式名称を知りたいと思ってGrokに聞いてみたのである。そしたら、「関係性の存在論」について私が思っているように答えてくれた。つまり私が勝手に呼んでいた「関係性の存在論」は本当に「関係性の存在論」として存在したのであった。それが嬉しくて、何度もGrokに「関係性の存在論」について質問をしたのであった。

 ライプニッツやハイデガー、ホワイトヘッドや龍樹の縁起の思想、憧れの哲学者の名前が出て来た。これだけで、あたかも自分の理論が正式に認められたような気になっていたが、舞い上がりすぎである。一般に知られている学者の名前が並んでいるだけで、私の名前がそこに記されたわけではない。しかも「関係性の存在論」は、私のオリジナルでもないので、とんだ勘違いである。しかし、存在論の教科書のような本のなかに「関係性の存在論」を見つけることができなかったことから、哲学的には重要ではないことを私はずっと追い求めてきたのではないかと、さみしい気持ちになっていた。それがGrokによって、沢山の友達を紹介されたような気になって嬉しかったのである。

 沢山の憧れの学者の中に見慣れない名前が出て来た。それはブルーノ・ラトゥールというフランスの哲学者である。そして彼が主張するのが「アクターネットワーク理論」である。このアクターネットワーク理論とは何であろうか。「関係性の存在論」とどのように関係するのだろうか。とても興味が湧いてきたのである。この「アクターネットワーク理論」について、一橋大学教授の久保明教氏が『ブルーノ・ラトゥールの取説』(以下『取説』)という本の中で述べていたので、それをもとに理解を深めたい。

 まずは、手短な「アクターネットワーク理論」の説明を見ると、「社会を固定された構造ではなく、人やモノの連関の結果として現れる動的なプロセスと捉え、科学や技術、社会現象の形成を人間と非人間の相互作用の結節点として分析する理論である」。これだけでは、わかりにくいので、久保氏の本を参考にしよう。

 久保氏の著書『取説』の中では、「物事を知る」とはどういうことを指すのか、それを二つの説とアクターネットワーク理論を比較することによって説明している。

 二つの説とは、①対応説と②社会構成主義の説である。

 『取説』の中では、①対応説は、「科学的な知識とは世界(自然の事実)と正確に対応する言明である。」としている。一方、②社会構成主義の説は、「知る者の認識は社会、文化、言語的な枠組み(フィルター)によって規定される。」としている。

 ①対応説とは、物事を知るということの一般的な解釈であって、つまり物事とそれを表す言葉や数式等がしっかりと対応しているというものだ。一方、②社会構成主義の説とは、知識とは、それが作られる社会や文化的なものであって、社会や文化が変われば、知識も変わってしまうというものだ。

 たとえば、「0+1=1」という数学の知識がある。これを①対応説で考えれば、「0+1=1」とは、事実と正確に対応していると考えられ、世界中どこで検証しても変わりなく、普遍的な知識であると考えるのだ。これを②社会構成主義の説で考えると、「0+1=1」とは、社会や文化によってその妥当性は変わってくると考えるのである。私たちの一般的な感覚では、にわかには受け入れられないが、事実その例がある。

 デイヴィッド・ブルアという社会学者の『数学の社会学』という本のなかでは、科学的な理論や概念が時代や地域によって異なる社会的な規約、取り決めの産物として示されている。先ほどの「0+1=1」は普遍的に正しいように思われるが、「0」や「1」が加算の対象となる数であることが認められない時代や地域においては、この式は端的に誤っている。実際、ブルアによるとギリシア初期の数学において「1」は数の出発点となる尺度つまり基準ではあったが、尺度によって計られる数ではなかった。「0+1=1」というような特定の知識が妥当となるのは、時代や地域によって異なる取り決めの内側においてだけなのである。

 そして③アクターネットワーク理論は、この二つの説を同時に否定するという。すなわち「科学的知識の妥当性を生み出しているのは、①自然の事実の正確な把握(対応説)ではなく、②社会的な枠組み(社会構成主義の説)でもなく、③人間と人間以外を含む行為体(ACTOR)が織りなす諸関係(アクターネットワーク)の効果である。」としているのだ。

 ここで私なりの理解を記してみたい。①対応説では、「事物」はその言葉や数式などの言明に還元され、②社会構成主義の説は、社会や文化に還元される。ここでの「還元される」は、「~で説明される」と言い換えてもいいかもしれない。つまり、①対応説では、物事が言明で「説明され」、②社会構成主義の説では、社会や文化で「説明される」と言えるのではないだろうか。そして③アクターネットワーク理論では、人間や非人間のネットワークで「説明される」のである。すなわちネットワークのつながりが知識なのだ。

 またこう言い換えることもできるかも知れない。事物を表すのは言明である①。しかし言明は社会の影響を受けて変化する②。そしてさらには社会も変化するので、個々のつながりを見なければならない③。つまり寄って立つところが具体的になっていっているように見える。ホワイトヘッドが言ったことに「具体的なものをとりちがえる間違い」というものがある。これは、具体的な状態をいったん抽象化して把握しているにもかかわらず、抽象化したことを忘れ、その結果の方を具体的なものだと我々は思い込んでしまうということだ。事物を抽象化して言明や社会で表現しているけれども、言明や社会が抽象化されたものだということを忘れてしまうのだ。言明や社会はそれを生み出す個々のアクターによって構成されている。そのレベルまで具体化していくことがアクターネットワーク理論ではないだろうか。

 ラトゥールは「実験室研究」というものをしているようだ。これは、科学者たちの実験という活動が、特定の時空間における物質的・社会的条件のもとで装置や道具を用いて行われる極めて具体的な実践であることに焦点を当てるものであったそうだ。科学的知識が生まれてくる場所を具体的に調べたわけである。このことが、アクターネットワーク理論の中核をなしているように感じたのである。抽象化されたものを具体化していく、これを徹底するものがアクターネットワーク理論なのだろうか。そして具体的なネットワークのつながり、すなわち関係性が事実を作り出しているのだろうか。これからさらに理解を深めていきたいと思っている。

 Grokはインターネットのネットワークの中から「関係性の存在論」を探してきてくれた。そしてブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論を私に教えてくれたのである。私は関係性の存在論を研究する中で、関係そのものを扱わなければならないと思い、物理学や経済学にも興味を持った。ラトゥールは、その知識の具体的な前提となる研究室の研究を行ったというのだから、恐れ入ったものである。AIが集めてきてくれた間接的なものに満足はしてられない。AIに頼るのではなく、自らもっと具体的なものへと肉薄したいのだ。

 中小企業診断士の資格の勉強はそんな具体的なものへの肉薄への欲求の結果かも知れない。私の生活の周りにあったり、将来のためであったり、具体性が高いのだ。さて、勉強しなければ!Grok、何からすればいい?


令和七年九月十七日


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